2023.07.08
岡山で過ごした“極貧の少年時代“ カレーハウスCoCo壱番屋の創業者 宗次徳二さんが語る【岡山】
カレーハウスCoCo壱番屋の創業者、宗次徳二さん(74)。夫婦で始めた小さな喫茶店の人気メニューから、日本を代表するカレーライスの専門チェーン店を育て、53歳で早々に経営を後進に譲りました。
孤児だった宗次さんが、養父とともに幼い頃の約4年間を過ごしたのが岡山県玉野市です。養父はギャンブル好きで、2人の暮らしは想像を絶する“極貧”でした。
養父の死後、養母に引き取られ名古屋に移りましたが、玉野の極貧生活は「とても貴重な4年間で、人生のスタートを切った場所」と語ります。
宗次さんは、6月25日に名古屋市で行われた「東海岡山県人会」の総会で講演を行い、当時の思い出やその後の岡山との交流を語りました。
■孤児院に預けられ
4歳ぐらいから8歳まで玉野市にいました。4年間しかいなかったんですが、今思うとその4年間がすごく生かされました。人生のスタートを岡山で切れたことはうれしいですね。
実の母親の戸籍は石川県で、父親は兵庫県の三宮でした。私を生んだけど育てられないから尼崎の施設に入れられました。そこに尼崎で雑貨商をやっていた宗次さん夫婦が来て、「誰か一人育てたい」と子供たちの中から私を選んで、連れて帰ったんです。
■ギャンブル好きの養父
養父は競輪にとりつかれて、商売そっちのけでした。瞬く間に破産をして、夜逃げで岡山に行ったんです。玉野市の宇野駅に降りたと思うのですが、その記憶はありません。小高い山の上に住宅が建っていて、川が流れていて、その横の道路を養母に手を引かれて歩いているところが記憶の始まりです。
玉野市奥玉に3畳か4畳半の狭い部屋を借りて住んでいました。母は魚の行商をしていました。自転車にトロ箱を何段か積んで、私も一緒に回っていました。
ある日の夕暮れ、母が畑の真ん中で父に棒で叩かれていました。私はそれを20メートルくらい離れた細い道から見ていました。その日のうちに母親はいなくなり、父と2人の生活になりました。
父は日雇いで道路工事の仕事をしていました。大体5時半とか6時に帰ってくるとパチンコ屋に連れていかれます。それで店の中に落ちているタバコの吸い殻を拾って来いと言われて、大人の足をかき分けてタバコの吸い殻を拾いました。5歳か6歳ですよ。
■玉野での極貧生活
お金は競輪に消えるので電気代は払えず、家賃も払えません。ご飯は5食に1食くらいですかね。あとはビワとかイチジクとか、道端で目についたものをいただいて。
家の裏にそんなに高くない山があって、そこでセミを獲ったりもしました。川の上流の方で魚を獲って、食べ物がないから家で鍋にしたこともありました。友達とも遊びましたが、よく一人で遊んでいましたね。
父親は競輪狂い。日雇いをやって200円、300円持って玉野競輪に行って。宇高連絡船で高松競輪に行ったこともありました。競輪場には外れ車券がいっぱい落ちています。その中に当たり車券が落ちてないか、一生懸命探すんです。何とか父に喜ばれたいと思って、必死で探すんです。見つかったことはありませんでしたが。
父は本当にめちゃくちゃでしたからね。気に入らないとすぐ竹で叩かれていました。それでも一緒にいるだけでうれしくて、喜んでもらおうという気持ちがずっとありました。嫌だと思ったことはないです。
その時の「耐えること」や「人に喜んでもらいたい」という思いが、その後の商売にもつながっています。今でも無休で朝4時には仕事を始めています。休もうと思ったことがないんです。それもやっぱり苦労したおかげかな。
■父の死、そして名古屋へ
小学3年生のころ、父に癌が発見されて、翌年の7月に亡くなりました。それで母に引き取られ、名古屋での生活が始まりました。その頃も電気は無くて、高校に入る数カ月前まで、ロウソクの火で暮らしていました。
名古屋でも超貧乏でしたが、岡山の玉野時代は、どうやって生活していたんだろう?って思います。まあ本当に鍛えられました。だから同じような境遇の人がいたら、黙っていられないんです、私。
■子供たちの役に立ちたい
53歳で引退しましたから、もう20年です。ココイチという会社を通じて、使い切れないような資産をいただいたので、恵まれない人、母子家庭の手助けをしたり、色んな活動を一生懸命している人のため、死ぬまでに全部使おうと思っています。やっぱり助け合いですよね。
部活を一生懸命やっている子たちの役に立ちたいと思って、学校のブラスバンドに楽器を贈る活動もしています。楽器をそろえるのは大変ですから。愛知県内の希望する学校にはほとんど贈って、その一環で玉野市内の中学校4校にも贈りました。岡山には3~4年に一回くらい行っています。
そうした活動ができるっていうことが、自分にとって一番幸せです。相手の方にものすごく感謝されるんですが、その何倍もこちらの方が満たされます。だから続くんです。
孤児だった宗次さんが、養父とともに幼い頃の約4年間を過ごしたのが岡山県玉野市です。養父はギャンブル好きで、2人の暮らしは想像を絶する“極貧”でした。
養父の死後、養母に引き取られ名古屋に移りましたが、玉野の極貧生活は「とても貴重な4年間で、人生のスタートを切った場所」と語ります。
宗次さんは、6月25日に名古屋市で行われた「東海岡山県人会」の総会で講演を行い、当時の思い出やその後の岡山との交流を語りました。
■孤児院に預けられ
4歳ぐらいから8歳まで玉野市にいました。4年間しかいなかったんですが、今思うとその4年間がすごく生かされました。人生のスタートを岡山で切れたことはうれしいですね。
実の母親の戸籍は石川県で、父親は兵庫県の三宮でした。私を生んだけど育てられないから尼崎の施設に入れられました。そこに尼崎で雑貨商をやっていた宗次さん夫婦が来て、「誰か一人育てたい」と子供たちの中から私を選んで、連れて帰ったんです。
■ギャンブル好きの養父
養父は競輪にとりつかれて、商売そっちのけでした。瞬く間に破産をして、夜逃げで岡山に行ったんです。玉野市の宇野駅に降りたと思うのですが、その記憶はありません。小高い山の上に住宅が建っていて、川が流れていて、その横の道路を養母に手を引かれて歩いているところが記憶の始まりです。
玉野市奥玉に3畳か4畳半の狭い部屋を借りて住んでいました。母は魚の行商をしていました。自転車にトロ箱を何段か積んで、私も一緒に回っていました。
ある日の夕暮れ、母が畑の真ん中で父に棒で叩かれていました。私はそれを20メートルくらい離れた細い道から見ていました。その日のうちに母親はいなくなり、父と2人の生活になりました。
父は日雇いで道路工事の仕事をしていました。大体5時半とか6時に帰ってくるとパチンコ屋に連れていかれます。それで店の中に落ちているタバコの吸い殻を拾って来いと言われて、大人の足をかき分けてタバコの吸い殻を拾いました。5歳か6歳ですよ。
■玉野での極貧生活
お金は競輪に消えるので電気代は払えず、家賃も払えません。ご飯は5食に1食くらいですかね。あとはビワとかイチジクとか、道端で目についたものをいただいて。
家の裏にそんなに高くない山があって、そこでセミを獲ったりもしました。川の上流の方で魚を獲って、食べ物がないから家で鍋にしたこともありました。友達とも遊びましたが、よく一人で遊んでいましたね。
父親は競輪狂い。日雇いをやって200円、300円持って玉野競輪に行って。宇高連絡船で高松競輪に行ったこともありました。競輪場には外れ車券がいっぱい落ちています。その中に当たり車券が落ちてないか、一生懸命探すんです。何とか父に喜ばれたいと思って、必死で探すんです。見つかったことはありませんでしたが。
父は本当にめちゃくちゃでしたからね。気に入らないとすぐ竹で叩かれていました。それでも一緒にいるだけでうれしくて、喜んでもらおうという気持ちがずっとありました。嫌だと思ったことはないです。
その時の「耐えること」や「人に喜んでもらいたい」という思いが、その後の商売にもつながっています。今でも無休で朝4時には仕事を始めています。休もうと思ったことがないんです。それもやっぱり苦労したおかげかな。
■父の死、そして名古屋へ
小学3年生のころ、父に癌が発見されて、翌年の7月に亡くなりました。それで母に引き取られ、名古屋での生活が始まりました。その頃も電気は無くて、高校に入る数カ月前まで、ロウソクの火で暮らしていました。
名古屋でも超貧乏でしたが、岡山の玉野時代は、どうやって生活していたんだろう?って思います。まあ本当に鍛えられました。だから同じような境遇の人がいたら、黙っていられないんです、私。
■子供たちの役に立ちたい
53歳で引退しましたから、もう20年です。ココイチという会社を通じて、使い切れないような資産をいただいたので、恵まれない人、母子家庭の手助けをしたり、色んな活動を一生懸命している人のため、死ぬまでに全部使おうと思っています。やっぱり助け合いですよね。
部活を一生懸命やっている子たちの役に立ちたいと思って、学校のブラスバンドに楽器を贈る活動もしています。楽器をそろえるのは大変ですから。愛知県内の希望する学校にはほとんど贈って、その一環で玉野市内の中学校4校にも贈りました。岡山には3~4年に一回くらい行っています。
そうした活動ができるっていうことが、自分にとって一番幸せです。相手の方にものすごく感謝されるんですが、その何倍もこちらの方が満たされます。だから続くんです。