2025.03.28
岡山ロケ映画「カオルの葬式」監督・岡山出身の湯浅典子さん 映画祭9賞受賞で注目【ライブトーク岡山】
いま旬な人や話題の人に私が直接会ってお話をきくLiveトーク。今回のゲストは「カオルの葬式」などの映画を手がけた岡山市出身の映画監督、湯浅典子さんです。
バングラデシュの映画祭で最優秀脚本賞に輝くなど、国の内外の映画祭で合わせて9つの賞を受賞した映画「カオルの葬式」。「カオル」という名のシングルマザーの女性が亡くなり、残された人たちを通してなぜ人は生きるのかを問いかけた作品です。そのメガホンをとったのが、岡山市出身の湯浅典子さんです。
(中塚美緒アナウンサー)
「最初お会いした時から本当に素敵な衣装だなと思いました。」
(湯浅典子監督)
「この間のバングラデシュのダッカ国際映画祭に行かせてもらって、観光にちょっと行かせてもらった時に、素敵だなと思って。なんかバングラデシュっぽくもあるけど、ちょっと日本っぽいなみたいなところもあって買ってきたんです。」
Q、「カオルの葬式」の舞台は岡山。選んだ理由は?
(湯浅典子監督)
「ずっとテレビやドラマを制作していて、6年くらい前にアマゾンプライムで、(俳優の)濱田岳さんとバイクで日本一周するドラマを作って撮っていた。ある回が岡山メインの回で、その時に岡山は日本を撮れるところだとすごく思った。長編でちゃんと自分でこれが私の作品ですって言えるようなものを作る時には岡山でやろうと思った。客観的にすごくいい所だなと本当に思った。」
Q,映画監督になったきっかけは?
(湯浅典子監督)
「もともと本当に岡山で育った時から好きは好きだったんですよ。それこそ20歳の時に東京に行って。ちょうどの北野武さんのHANA―BIという映画が劇場公開されていた。北野さんのクレジットは、たくさん名前が流れるが、原案、脚本、監督、編集と…これは楽しい仕事だと思って。なかなか最初から最後までをずっとやれる仕事って、そんなにない。私はたぶん理数系の考え方が好きですし、解明できない深さが、芸術と呼ばれるものとか、エンタメって呼ばれるものにはある。なんでこんなにザワザワするんだっけ?なんでこんなドキドキするんだっけ?みたいなことをずっと考えていける仕事はいいなと思った。」
大学卒業後、一旦、テレビの制作会社に入社した湯浅さん。30歳の誕生日をある場所で迎えたことで、映画監督としての人生がスタートします。
(湯浅典子監督)
「放送局の中で脚本打ち合わせ(本打ち)をしていた。ちょうど日付が変わった。本打ちが終わるころにプロデューサーとかに『私、実はこの打ち合わせ中に30歳になっちゃいました』みたいな話をしていたら、『本打ちしながら30歳になる人は、死ぬまでこの仕事をするんだよ』モノを作っていくことになるよ(と言われた)。あっ、なるほどと思った。死ぬまでやるならやっぱり良い所で環境を変えて、自分がもともとやりたいと思ったことをやらないといけないなと思った。」
「映画監督になる」そう決意できたのは、ある人生の転機を迎えたからでした。
(湯浅典子監督)
「阪神・淡路大震災のあった年は18歳で、ちょうどセンター試験が終わった後だったと思います。自分の思いとは、全く関係のないところでというか。自分の思いなんて本当に小さいものでしかないんだなって、漠然と私の人生も本当にどうなってしまうんだろう…と思っていた。それでも結果としては受験もできたし、東京に行くことで、今ここに立っていられているなと思う。都度都度この時のことを思うんです。どれだけ自分が、自分の頭の中で考えられること全部やったって思ったとしても、そんなことが全部やれるような環境が一瞬で壊れてしまうこともある。だから、やっぱりできる限りベストを尽くさないといけないと思う。」
ここからは湯浅さんの人柄に迫ります
―好きな言葉―
(湯浅典子監督)
「ひょっこりひょうたん島などを書いた劇作家の井上ひさしさんの言葉が脚本を作り、企画を考える時に戻ってくる言葉です。
読んでみます。
『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことをあくまでゆかいに』
これがそのモノを作る時に大切な言葉だ、大切なんだっていう。本当に有名なお言葉なんですけど、本当に感激した。答え合わせじゃないけど、自分がいま作ったものがこうなってるかな?って思う。こうなってないとしたら、これは1回やり直そうって…そうならないには、そのならない理由があって、これは表に出しちゃいけないんだなと思ったりするぐらい、大事な大事な言葉です。」
Q,最後に映像制作を目指す若者にメッセージを
(湯浅典子監督)
「撮ること自体は身近になったと思う。ぜひ、その上でいろんな国の作品を見てほしい。身近な見えている半径の狭い所に自分の思考があると、作るものも身近だけど分かりやすいが、すごく小さいものになってしまう。日本はアジアの一つ、世界の一つそういう所で生きている時代だと思う。大きく踏ん張って作ってもらえればと思う。」
<OHKライブニュースで2025年3月14日放送>
バングラデシュの映画祭で最優秀脚本賞に輝くなど、国の内外の映画祭で合わせて9つの賞を受賞した映画「カオルの葬式」。「カオル」という名のシングルマザーの女性が亡くなり、残された人たちを通してなぜ人は生きるのかを問いかけた作品です。そのメガホンをとったのが、岡山市出身の湯浅典子さんです。
(中塚美緒アナウンサー)
「最初お会いした時から本当に素敵な衣装だなと思いました。」
(湯浅典子監督)
「この間のバングラデシュのダッカ国際映画祭に行かせてもらって、観光にちょっと行かせてもらった時に、素敵だなと思って。なんかバングラデシュっぽくもあるけど、ちょっと日本っぽいなみたいなところもあって買ってきたんです。」
Q、「カオルの葬式」の舞台は岡山。選んだ理由は?
(湯浅典子監督)
「ずっとテレビやドラマを制作していて、6年くらい前にアマゾンプライムで、(俳優の)濱田岳さんとバイクで日本一周するドラマを作って撮っていた。ある回が岡山メインの回で、その時に岡山は日本を撮れるところだとすごく思った。長編でちゃんと自分でこれが私の作品ですって言えるようなものを作る時には岡山でやろうと思った。客観的にすごくいい所だなと本当に思った。」
Q,映画監督になったきっかけは?
(湯浅典子監督)
「もともと本当に岡山で育った時から好きは好きだったんですよ。それこそ20歳の時に東京に行って。ちょうどの北野武さんのHANA―BIという映画が劇場公開されていた。北野さんのクレジットは、たくさん名前が流れるが、原案、脚本、監督、編集と…これは楽しい仕事だと思って。なかなか最初から最後までをずっとやれる仕事って、そんなにない。私はたぶん理数系の考え方が好きですし、解明できない深さが、芸術と呼ばれるものとか、エンタメって呼ばれるものにはある。なんでこんなにザワザワするんだっけ?なんでこんなドキドキするんだっけ?みたいなことをずっと考えていける仕事はいいなと思った。」
大学卒業後、一旦、テレビの制作会社に入社した湯浅さん。30歳の誕生日をある場所で迎えたことで、映画監督としての人生がスタートします。
(湯浅典子監督)
「放送局の中で脚本打ち合わせ(本打ち)をしていた。ちょうど日付が変わった。本打ちが終わるころにプロデューサーとかに『私、実はこの打ち合わせ中に30歳になっちゃいました』みたいな話をしていたら、『本打ちしながら30歳になる人は、死ぬまでこの仕事をするんだよ』モノを作っていくことになるよ(と言われた)。あっ、なるほどと思った。死ぬまでやるならやっぱり良い所で環境を変えて、自分がもともとやりたいと思ったことをやらないといけないなと思った。」
「映画監督になる」そう決意できたのは、ある人生の転機を迎えたからでした。
(湯浅典子監督)
「阪神・淡路大震災のあった年は18歳で、ちょうどセンター試験が終わった後だったと思います。自分の思いとは、全く関係のないところでというか。自分の思いなんて本当に小さいものでしかないんだなって、漠然と私の人生も本当にどうなってしまうんだろう…と思っていた。それでも結果としては受験もできたし、東京に行くことで、今ここに立っていられているなと思う。都度都度この時のことを思うんです。どれだけ自分が、自分の頭の中で考えられること全部やったって思ったとしても、そんなことが全部やれるような環境が一瞬で壊れてしまうこともある。だから、やっぱりできる限りベストを尽くさないといけないと思う。」
ここからは湯浅さんの人柄に迫ります
―好きな言葉―
(湯浅典子監督)
「ひょっこりひょうたん島などを書いた劇作家の井上ひさしさんの言葉が脚本を作り、企画を考える時に戻ってくる言葉です。
読んでみます。
『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことをあくまでゆかいに』
これがそのモノを作る時に大切な言葉だ、大切なんだっていう。本当に有名なお言葉なんですけど、本当に感激した。答え合わせじゃないけど、自分がいま作ったものがこうなってるかな?って思う。こうなってないとしたら、これは1回やり直そうって…そうならないには、そのならない理由があって、これは表に出しちゃいけないんだなと思ったりするぐらい、大事な大事な言葉です。」
Q,最後に映像制作を目指す若者にメッセージを
(湯浅典子監督)
「撮ること自体は身近になったと思う。ぜひ、その上でいろんな国の作品を見てほしい。身近な見えている半径の狭い所に自分の思考があると、作るものも身近だけど分かりやすいが、すごく小さいものになってしまう。日本はアジアの一つ、世界の一つそういう所で生きている時代だと思う。大きく踏ん張って作ってもらえればと思う。」
<OHKライブニュースで2025年3月14日放送>