2022.10.16
【ライブトーク】10代で社長に就任 それから56年…宮下酒造・宮下附一竜社長【岡山】
特集は、今、旬な人に直接会って話を伺う「森夏美のライブトーク」。ゲストは11月、リニューアルオープンする岡山城をイメージしたラベルの地ビールを販売し、話題となった岡山市の宮下酒造の宮下附一竜社長です。
創業100年を超える岡山市の老舗酒造メーカー、宮下酒造を半世紀以上率いる宮下附一竜社長(76)です。 (森夏美アナウンサー)
「素敵なバーカウンターが後ろにありますね」 (宮下附一竜社長)
「ありがとうございます。私の50年の長い商売の成果。人生の大きな目標だった」 客と直接関わりたいという社長の強い思いから、5年前オープンした酒工房・独歩館で話を聞きました。
(Q・日本酒、ビール、ウイスキーと様々なお酒が並んでいますが、自社製品のレパートリー豊富ですね)
(宮下附一竜社長)「今、ワイン以外は全部造っています」
(Q・スタッフのみなさんも担当が分かれている?)
「わが社では1人3役、多能工。1人が1つしか出来ないのはだめ。ビールもできる。ウイスキーもできる。焼酎もできる。そういう役割を目指している」
地ビール「独歩」をはじめ宮下酒造が手掛ける酒は、実に700点以上。 中でも日本酒の「極聖」は、全国新酒鑑評会で9年連続、金賞を受賞しています。 「金賞が最初とれた時は非常にうれしかった。これで岡山の酒、宮下の酒が日本中に通用することが証明されたと感じた」 私も試飲させて頂くことに…
(宮下附一竜社長)
「大事なのは香り。香りも、鼻の香りと口の中の香り、2種類あるから」 (森夏美アナウンサー)
「表現するのが難しい。米の甘い香りがします。いただきます。口当たりがなめらかで、でもきつくない。やさしい香り。おいしい」
(宮下附一竜社長)
「今、日本酒の輸出が盛んになっている。世界の酒と競争するようになっている。日本だけ見ていちゃだめ、世界を見る。日本と世界の酒文化をつなぐのが私の一生の経営理念」 日々、世界のあらゆる酒の勉強をしているという宮下社長。経営を任されたのは、まだ10代の時でした。
「19歳で父親が亡くなって、すぐ社長になった。学生社長だった。今思うと、全く未熟で、何も知らない。銀行でお金を借りるのもどうやるか分からなかった。56年社長を続けているけど、だいぶよく分かってきた気がする」
(Q・長く社長をしてご苦労もたくさんあったと思うが、くじけそうになったタイミングは?)
「ありました。日本酒がだんだん売れなくなって…」
(Q・困難をどう乗り越えた?)
「何か新しいことをやる。例えば地ビールを始めた。日本酒ではだいぶ差がついていたが、(当時黎明期だった)地ビールはみんな同じ条件」
(Q・スタートラインが一緒)
「努力すれば、それだけ認められる」
(森夏美アナウンサー)
「ここからは、宮下社長の人生の転機を紐解きます」
【人生の転機】
(Q・人生の転機となった瞬間の一枚、海外に行った?)
「これはワシントン。アメリカビール酒造組合へ行って、会長とお会いした時の写真」 当時、全国地ビール醸造者協議会の会長だった宮下社長、23年前のこの出会いが、日本の地ビール文化が発展するきっかけになったのです。
「アメリカは日本より地ビールを10年以上前から始めている。アメリカでは、小さい地ビールメーカーを大事にして育てる税制を作っていた。アメリカから帰って、政府に、もっと地ビールを大事にしろと陳情した。アメリカから帰って約3年かかったが、日本の地ビールが、今日ポピュラーになるもとは、そこがあったと思う」
【人柄に迫る】
(森夏美アナウンサー)
「宮下社長の人柄に迫っていきます」
【社長の晩酌】
(Q・大変気になるが、普段は何を飲む?)
「毎日飲む。何を飲むということではなく、うちの商品を順番に飲む。フランス料理とか洋食の場合は、ワインやウイスキー。和食の時は日本酒、焼酎。お酒がないとご飯は食べられないです。僕は」
(Q・そういう体になった?)
「体というか、雰囲気がない」
【座右の銘とその理由】
「私の信念は『積小為大』。小さいことを積み重ねて、大きいことを成す。最初ビールを作る時は、自分の人生の勝負をかけたが、ビールを蒸留するとウイスキーになる。ウイスキーができたら、ジンやウォッカも同じ機械でできる。結合する、違った文化を。これがイノベーションの元。だから、今も新製品のアイデアがどんどん。現場が困っている。あれもやれ、これもやれって」
会社を率いて半世紀以上。この先描く、未来は…
(宮下附一竜社長)
「“Always be a challenger”オールウェイズ・ビー・ア・チャレンジャー。いつも挑戦者であれ。この精神が大事だと思っています」 (Q・これからも挑戦し続ける?)
「死ぬまでそうしたいと思う」
創業100年を超える岡山市の老舗酒造メーカー、宮下酒造を半世紀以上率いる宮下附一竜社長(76)です。 (森夏美アナウンサー)
「素敵なバーカウンターが後ろにありますね」 (宮下附一竜社長)
「ありがとうございます。私の50年の長い商売の成果。人生の大きな目標だった」 客と直接関わりたいという社長の強い思いから、5年前オープンした酒工房・独歩館で話を聞きました。
(Q・日本酒、ビール、ウイスキーと様々なお酒が並んでいますが、自社製品のレパートリー豊富ですね)
(宮下附一竜社長)「今、ワイン以外は全部造っています」
(Q・スタッフのみなさんも担当が分かれている?)
「わが社では1人3役、多能工。1人が1つしか出来ないのはだめ。ビールもできる。ウイスキーもできる。焼酎もできる。そういう役割を目指している」
地ビール「独歩」をはじめ宮下酒造が手掛ける酒は、実に700点以上。 中でも日本酒の「極聖」は、全国新酒鑑評会で9年連続、金賞を受賞しています。 「金賞が最初とれた時は非常にうれしかった。これで岡山の酒、宮下の酒が日本中に通用することが証明されたと感じた」 私も試飲させて頂くことに…
(宮下附一竜社長)
「大事なのは香り。香りも、鼻の香りと口の中の香り、2種類あるから」 (森夏美アナウンサー)
「表現するのが難しい。米の甘い香りがします。いただきます。口当たりがなめらかで、でもきつくない。やさしい香り。おいしい」
(宮下附一竜社長)
「今、日本酒の輸出が盛んになっている。世界の酒と競争するようになっている。日本だけ見ていちゃだめ、世界を見る。日本と世界の酒文化をつなぐのが私の一生の経営理念」 日々、世界のあらゆる酒の勉強をしているという宮下社長。経営を任されたのは、まだ10代の時でした。
「19歳で父親が亡くなって、すぐ社長になった。学生社長だった。今思うと、全く未熟で、何も知らない。銀行でお金を借りるのもどうやるか分からなかった。56年社長を続けているけど、だいぶよく分かってきた気がする」
(Q・長く社長をしてご苦労もたくさんあったと思うが、くじけそうになったタイミングは?)
「ありました。日本酒がだんだん売れなくなって…」
(Q・困難をどう乗り越えた?)
「何か新しいことをやる。例えば地ビールを始めた。日本酒ではだいぶ差がついていたが、(当時黎明期だった)地ビールはみんな同じ条件」
(Q・スタートラインが一緒)
「努力すれば、それだけ認められる」
(森夏美アナウンサー)
「ここからは、宮下社長の人生の転機を紐解きます」
【人生の転機】
(Q・人生の転機となった瞬間の一枚、海外に行った?)
「これはワシントン。アメリカビール酒造組合へ行って、会長とお会いした時の写真」 当時、全国地ビール醸造者協議会の会長だった宮下社長、23年前のこの出会いが、日本の地ビール文化が発展するきっかけになったのです。
「アメリカは日本より地ビールを10年以上前から始めている。アメリカでは、小さい地ビールメーカーを大事にして育てる税制を作っていた。アメリカから帰って、政府に、もっと地ビールを大事にしろと陳情した。アメリカから帰って約3年かかったが、日本の地ビールが、今日ポピュラーになるもとは、そこがあったと思う」
【人柄に迫る】
(森夏美アナウンサー)
「宮下社長の人柄に迫っていきます」
【社長の晩酌】
(Q・大変気になるが、普段は何を飲む?)
「毎日飲む。何を飲むということではなく、うちの商品を順番に飲む。フランス料理とか洋食の場合は、ワインやウイスキー。和食の時は日本酒、焼酎。お酒がないとご飯は食べられないです。僕は」
(Q・そういう体になった?)
「体というか、雰囲気がない」
【座右の銘とその理由】
「私の信念は『積小為大』。小さいことを積み重ねて、大きいことを成す。最初ビールを作る時は、自分の人生の勝負をかけたが、ビールを蒸留するとウイスキーになる。ウイスキーができたら、ジンやウォッカも同じ機械でできる。結合する、違った文化を。これがイノベーションの元。だから、今も新製品のアイデアがどんどん。現場が困っている。あれもやれ、これもやれって」
会社を率いて半世紀以上。この先描く、未来は…
(宮下附一竜社長)
「“Always be a challenger”オールウェイズ・ビー・ア・チャレンジャー。いつも挑戦者であれ。この精神が大事だと思っています」 (Q・これからも挑戦し続ける?)
「死ぬまでそうしたいと思う」